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訪日客に大人気の忍者、その“真の姿”とは…甲賀・伊賀の忍術を集大成した秘伝書「万川集海」を読み解く

2017/03/15

忍者を生み出した地として双璧をなす「甲賀」と「伊賀」。両地(現在の滋賀県甲賀市と三重県伊賀市の一帯)に伝わる忍術をまとめた“集大成”の書とされるのが「万川集海(まんせんしゅうかい)」だ。江戸期の作とみられるこの秘伝書について現代語訳、読み下し文、原文を収めた750ページ近い大作「完本 万川集海」(国書刊行会)が近年刊行された。著者は、古文書を収集し忍者を研究している山口県の医師、中島篤巳さん(72)で、忍者が水面を移動する際に使う道具「水蜘蛛(ぐも)」の使い方など、通説とは異なる興味深い“真実”も明らかにしている。中島さんは「江戸時代でも、甲賀と伊賀の忍者は公権力に不可欠な『誇るべき存在』だったことがわかる」と話す。

「水蜘蛛」はこうやって使う

201703151308_1-300x0.jpg甲賀と伊賀の地に伝わる忍術の秘伝書「万川集海」を現代によみがえらせた中島篤巳さん

中島さんが完本のもとにした国立公文書館内閣文庫の蔵本の万川集海は、忍術を伝える22巻と兵法書である「万川集海 軍用秘記」からなる。22巻の中には、「家忍之事」(第13巻、家の中に忍び込むこと)や「忍夜討」(第15巻、夜襲すること)といった特殊任務から、「登器」(第18巻、壁などを登る道具)や「火器」(第21、22巻、火薬や火を使った道具)などの忍器まで広く紹介している。

万川集海に記された特殊な道具やさまざまな忍術は、現代の研究者だけでなく、忍者に関心のある人にとってもまさに「宝の箱」で、詳しく知れば新しい発見も。

例えば、中央の四角形の板を囲むように4枚の板を円形に組み合わせた「水蜘蛛」と呼ばれる水器。水蜘蛛を2つ用意し、中央の板に足をのせて忍者が水面を歩く想像図を見たことがある人もいるだろう。現代ではテレビで水面歩行に挑戦するシーンも見られるが、ほとんどは沈んで失敗に終わり、かねて実用性が疑問視されていた。

万川集海にも、水蜘蛛の外径を「二尺一寸八分(約65センチ)」にすることや、中央の板に「牛皮」を敷くことなど細かい記載があるものの、使い方の説明はない。しかし中島さんが収集した別の古文書には中央の板に「座る」と書かれており、中島さんは「一つの水蜘蛛に座り、足に『水掻(みずかき)』をはいて、水面を進んだのでは」と推測する。

このように使うと安定して座ることができ、「水面で弓を使ったり、鉄砲を撃ったりすることも可能なはず」と中島さん。よく知られた想像図にあるような使い方とはずいぶん違ったようだ。水掻は「万川集海」でも水蜘蛛のすぐ後に紹介されており、足をかくときだけ二重になった板の後ろの部分が開き、水をかくことができるという(図の右を参照)。
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「田の深さを知る」忍術も実は重要

江戸時代の「甲賀者」は、大名に「御忍役人」などとして雇われていたが、有事の際にのみ特殊任務に就くことになっており、普段は地元甲賀で農業などをして暮らしていた。そこで農業の知識を生かす術が、第10巻に「田の浅深を見計る術」として記されている。

中島さんは「相手の城を攻める際、田が深いか浅いかはとても大切な情報だった」と話す。

幾つかの例を挙げると、稲の切り株が短く、均一に刈られていると「浅田」だが、切り株に長短があり、きれいに刈られていないと「深田」だという。また、「浅田の畦(あぜ)は高く広く堅くして落入る(崩れた)所もなく…」とか、「くれの涌田(鉄分が多く茶褐色の水が湧出している田)は大いに深田なり」などと見分け方が書かれている。

こうした知識は、普段農業をして暮らしていたからこそのものだという。

のどの乾きを癒やすには…

戦国時代には、実際に相手の城に忍び込んで内情を偵察するなど特殊な任務についていただけあって、極限状態の中でどう生き延びていくか、「食」についての記載もある。

のどが渇いたときに用いるようにと、軍用秘記に記されているのが「水渇丸」。梅干しの肉を打ちつぶしたものを「一両(約37グラム)」、氷砂糖を「二匁(約7・5グラム)」、そして麦門冬(ばくもんどう)「一匁(約3・7グラム)」を粉末にして丸める-と記されている。

麦門冬とはユリ科の植物「ジャノヒゲ」の根の塊状部を乾燥させた薬で、せき止めや消炎、滋養強壮などにも使用された。今も漢方薬として販売されている。

医学博士でもある中島さんによると、酸味が強い、つまりすっぱいものを食べると、軽いのどの乾き程度なら抑えることができるという。

忍者にもっとも大切なものは「正心」

具体的な特殊任務の遂行方法や忍器の解説よりも先に、第2、3巻と大きな割合をさいて説かれているのが「正心」、つまり正しい心を持った忍者として活動することの大切さだ。

中島さんが収集してきた文書の中には、「窃盗」と書いて「しのび」と読むものも多いが、「特に時代が変わり、平和な江戸の世になってからは、『正しい人』として大名に仕官(雇ってもらうこと)してもらわなければならない。甲賀と伊賀では『善人』として、正義の側で技を使うことが重視された」という。

また、江戸時代の忍者にとって大切な技術であるはずの「火器」の解説は、万川集海では21巻と22巻、つまり序列の最後に収められており、しかも火術は忍術の本源ではない-としているところが興味深い。

万川集海は「源は則、陰陽両術の深理をもって輙(たやす)く敵城へ忍び入り、忽然(こつぜん)として敵を挫(くじ)くの術なり」と説き、わざわざ「巻末に附すのみ」としている。中島さんは「忍者の基本は『忍び込む』『逃げる』『隠れる』。けがをせずに任務を果たし、やむを得ない場合にのみ戦って生き延びる。そんな理想の姿をかいまみることができる」と話す。

まだまだ進む忍者研究

万川集海の命名の由来について、完本では「伊賀甲賀十一人の忍者の秘せし忍術忍器、並びに今代の諸流(中略)、又和漢の名将の作れる忍術の計策等(など)、あまねくこれを集め」た書である、つまりさまざまな忍術流派の「川」が、すべて大海に流れ込んだ広大な書として名付けられた-と説明されている。

また、国立公文書館内閣文庫の蔵本の万川集海には「延宝四(1676)年」に「江州甲賀郡隠士藤林保武」が序文を記した-という記述があり、全体の著者とも考えられるという。

この藤林保武について、中島さんは「伊賀では『藤林家』は有名だが、『甲賀五十三家』に藤林姓がみられないので、保武は『万川集海』を著したころ、甲賀で隠棲していたのではないか」とみる。

また、甲賀と伊賀の忍術を集大成した大著が完成したことについて、「甲賀と伊賀が一体となって時代の流れに抵抗し、独自の盗賊術や潜入術などを『生きるための忍術』として体系化していったことのあらわれではないか」とも分析。「忍術として今紹介されているものの中には、後世に、想像からイメージがつくられたものも少なくない」と話す。

中島さんは、忍術を生き延びるための「総合生活術」と位置づけ研究を進めており、今後も忍者の“真の姿”の解明が進みそうだ。

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