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コインに秘められたロシア兵捕虜と看護女性の恋 100年の時を超え、松山城“愛の物語”若者ら共感

2017/06/17

姫路城(兵庫県姫路市)などと並ぶ「三大平山城」として城郭ファンに人気の松山城(松山市丸之内)に知る人ぞ知る“恋愛スポット”がある。市街地の中央にある松山城は、高さ132メートルの勝山山頂にそびえる三層の天守(重文)で知られるが、恋愛スポットはその山麓にある「二之丸史跡庭園」で、近年は訪れる若いカップルが急増。松山市“公認”の「恋愛届」が発行されるまでになった。なぜ、有名なお城の一角が恋愛の聖地になったのか。歴史をひもとくと、100年余り前の日露戦争最中の国境を超えた愛の物語が関係していた。

201706141311_1.jpg松山城二之丸から出土した金貨。捕虜ロシア兵と看護の女性の名前が彫られている

日露戦争の秘話

恋愛スポットとして脚光を浴びるようになったきっかけは、昭和59年から3年にわたり二之丸で文化財の発掘調査が行われたことだった。調査では東西18メートル、南北13メートル、深さ9メートルの巨大な井戸が出現、関係者を驚かせたが、見つかったのはそれだけでなかった。

「タケバ ナカ」「コステンコ ミハイル」と、裏面に男女の名前が彫られた帝政ロシアの10ルーブル金貨(1899年製)が井戸の遺構から出土したのだ。直径23ミリのコインの上部には、ペンダントとして使用したとみられる傷もあった。

現在金貨を所有する松山市考古館によると、名前の主は日本赤十字社第80救護班に所属した看護師、竹場ナカさんと、ロシア陸軍第3東部シベリア砲兵旅団のミハイル・コステンコ中尉らしい。

松山市には明治37(1904)年、日本で初めての「俘虜(ふりょ)収容所」が開設され、日露戦争のロシア兵捕虜約6000人が収容された。ハーグ条約に従い、捕虜は比較的自由で、優遇されていたという記録が残っている。

足を負傷していたコステンコ中尉は、現在の二之丸史跡庭園の場所にあった衛戍(えいじゅ)病院(旧陸軍病院)に入院。そこには竹場さんが看護師として派遣されていたことが判明し、二之丸を舞台にしたラブロマンスが、100年の時を超えてよみがえったのだ。

恋人の聖地

松山市の東隣にある東温市の「坊っちゃん劇場」がこの秘話をもとに、平成23年にミュージカル「誓いのコイン」を創作し、約1年にわたって上演。戦争や革命に翻弄される国境を超えた愛の物語は人々の心をとらえ、翌年にはロシアのモスクワやオレンブルグでも公演されるほどの大ヒットになった。

ミュージカル人気に伴い、二之丸史跡庭園も話題に上るようになり、特に若いカップルからは熱いまなざしが注がれた。街の中心部に位置しながら、静かな時がゆっくりと流れる落ち着いたスペースの庭園は定番のデートコースになり、ベンチで話し込む男女の仲むつまじい姿もよく見られるように。

金貨は、庭園から徒歩約10分の「坂の上の雲ミュージアム」(松山市一番町)に常設展示されており、同ミュージアムとセットで散策を楽しむ男女も多い。

また、結婚写真を同庭園で前撮りするカップルも出現。その数は年々増え、今では年間約500組にも上り、土日曜には複数のカップルがあちこちでポーズを取る光景も。平成25年にはNPO法人地域活性化支援センターから、ロマンチックでプロポーズにふさわしい場所として「恋人の聖地」に選定された。

こうした影響で、庭園の入場者は一昨年度が6万2800人で、前年度比26%増。昨年度も6万5000人と前年度を上回った。

松山市の恋愛届

この人気ぶりに松山市もさまざまな企画を始めた。今年3月からは、「恋愛届」の受け付けサービスを開始。専用の用紙に2人が出会った場所や交際を始めた日、これからの願いなどを書き込み、最後に「永遠の愛を誓いますか」という問いにチェックを入れる。2人で署名して庭園の管理事務所に提出すると、「愛の誓いを受け付けました」と受付印が押される。

201706141311_2.jpg「愛の誓い」を記入するカップル

用紙には、松山市出身の漫画家、青木琴美さんが描いたイラストが入っている。カップルが満開のサクラの下でキスを交わす姿や、ギターを手に寄り添う姿を独特のタッチで描いたイラストは好評だ。

また市は二之丸史跡庭園のリーフレットの「恋人バージョン」も作成。二之丸の歴史や庭園についての説明文などは通常のリーフレットと変わりないが、淡いピンク地に青木さんのイラストが描かれ、ロマンチックな仕上がりになっている。

庭園内の多聞櫓には「恋人コーナー」も設け、ハートマークと金貨を組み合わせたモニュメントや、恋愛届を記入できるようテーブルやボールペンを用意した。ここで「願い文」を書くと、「恋人の聖地サテライト」に選定されている同市北条の夫婦岩の巨大なしめ縄に、メッセージが編み込まれる。

松山城の歴史

「賤ケ岳の七本槍」の1人で正木城(愛媛県松前町)城主だった加藤嘉明が、関ヶ原の戦いの功績で勝山に築城を許されたのが1601年。このとき建設された初代天守は、現在より規模の大きい五層だった。

 

201706141311_3.jpg金貨が見つかった松山城の大井戸遺構
天守は3代目の城主、松平定行によって1642年、三層に縮小され、1779年には落雷で焼失してしまった。江戸末期の1854年に再建された天守が現存の天守で、大正12年、久松家(1868年に松平姓を返上して旧姓に戻った)から松山市に寄贈された。

 

明治以降、放火や空襲で焼失した櫓や門も復元され、本丸は現在、天守を含めて30を超える櫓や門が藩政時代の威容を伝えている。

二之丸は山すその登城道脇に造営された。高い石垣と堀に守られ、広さは約1.6ヘクタール。本丸との間を結ぶ珍しい「登り石垣」は現在も残っている。当初は藩主が暮らす邸宅があったが、居所がさらに低い平地部の三之丸に移ったため、その後は専ら政務の場になっていたといわれている。明治以降、藩庁や県庁としても使用されたが、明治5年に火災で焼失した。

明治17年に隣接する堀之内地区に陸軍歩兵連隊が置かれると、二之丸には衛戍病院が建設され、医療の場になった。戦後は周辺の堀が埋められ、市立城東中学校が設置された。昭和27年、二之丸を含む一帯が史跡に指定され、それに伴って同57年、中学校が移転。

その後、多聞櫓や門などを復元し、御殿の間取りを縁石で復元してかんきつを植栽したり、流水路を整えるなどして藩政時代を想像できる史跡庭園として整備され、平成4年にオープンした。
 

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